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11/02/2004

刺激のインフレーションと刹那的な美しさの追求の果て~「音響の快楽」から「9.11」まで~

 ミュージックマガジン03年11月号掲載。

 最近なに聴いてるんですか、と。

 そう訊かれても、返答に窮してしまうことが多い。おもしろいものがないわけではない。が、どれも小粒なのだ。そんな質問を発する相手の顔を見て、××が最近おもしろい、と答えたところで、どうせ知らないだろうし関心もないだろうなぁ、と先回りして考えてしまう。それどんなのですか、と重ねて訊かれて「こういうの」と簡単に説明することのできないものが大半だったりするからまた、億劫になる。さらに、5年10年先、いや1年半年先にはそのレコードのことなどきれいさっぱり忘れているだろうなあ、と内心では思っているから、なおさらだ。そういえばここのところ、心底「感動」した洋楽のレコードって、何枚あったろうか。

 ごくおおざっぱに言ってしまえば、ぼくにとってのこの10年とは、そんなディケイドだった気がする。それはちょうど、「音響の快楽」が叫ばれ始めたころと符合している。

 個人的には、音響の快楽という認識を得たのはテクノに出会ったことが大きい。エイフェックス・ツインの『Selected Ambiemt Works 85-92』(92年)と、ハードフロアの『TB Resuscitation』(93年)、ジェフ・ミルズの『Waveform Transmission vol.3』(94年)は、とりわけ重要な作品だ。歌もない、ポップ・ソングの定型もない。無機的な電子音が明滅しながら四つ打ちのビートに乗って単調なリフレインを繰り返すだけのテクノは、ぼくにとってパンク以来の革命であり、価値観の転倒と更新だった。グランジ/オルタナティヴの価値を認めながらも、パブリック・エネミーなどヒップホップの洗礼ですでに懐疑的に思えていた定型的なロック・バンド・スタイルが、本当に何ひとつとして面白く思えなくなってしまったのだ。テクノ以降、音楽の聞こえ方がまるで変わってしまった。それまで20年以上聞いてきたロックが抱え込んでいた強い記名性、背景をはぎとって、純粋に音を音として享受する、いわゆる「音響の快楽」という概念が、大きなものとして浮上してきたのである。

 テクノにのめり込むようになったとは言っても、週末毎にクラブ通いを繰り返すような年でもなくなっていたぼくは、四つ打ちのキックの音をカラダで感じるというより、全体のアトモスフェリックなムードや音色に、テクノの魅力を感じていた。それはジェフ・ミルズのようなハードコア・ミニマルでも同じことだ。マウス・オン・マーズのアンディ・トーマが後に「メロディというのは、時に強すぎるガイドになる。曲の進む方向を規定しすぎてしまったり。それはリズム・シークエンスにしてもそうだけど、一つの要素が強すぎると、他の可能性が狭まってしまう」と発言しているが(本誌98年3月号)、それはぼくの実感とも一致していた。すべてが曖昧だからこそイマジネイティヴであり、全体の音のテクスチュアを重視するがゆえに、聴き手の感覚に直接浸透する強みがあった。それはいわば、それまでのロックの文法に慣れすぎていた聴き手としての、新たな世界観の獲得でもあった。ドラムン・ベース、ブリストル系トリップホップ、シカゴ音響派、イルビエント/アンダーグラウンド・ヒップホップ、ポスト・ロック、エレクトロニカ、さらにはデス・メタルやケオティック・ハードコアといったヘヴィ・ロック(歌詞のメッセージだの物語だのは関係なく、ただ大音量を浴びるように聴いてモウロウとなる、という構図はテクノと同じだ)まで、その後に台頭した先鋭的な動きは、すべて「音響」というキーワードに集約されると言っていい。音楽にまつわる「文体」の重要性の再認識、マスタリングの重要性の見直しや機材などハードウエアの進化という要因も大きいだろう。

 だがいっぽうで、この10年はワールド・ミュージック、グランジ/オルタナティヴ、レイヴといった時代を象徴する「大きな物語」が終焉し、「各論」の時代となって、音楽が細分化して、タコツボ化していった時期でもある。それはサブ・カルチャー状況全般をみても、避けられない動きだった。前記の各ムーヴメントにしても、その影響度や波及度はごく限定された領域にとどまっているのは否定できない。オウテカなどのいわゆる非ダンス系テクノ=エレクトロニカ/IDM系は例外的に「現象」と言われるほどのブームとなり、レディオヘッド、ビョーク、マドンナまで巻き込んだ大きな動きとなったが、短期間で乱立した有象無象のフォロワーでシーンが均質化して、たちまち飽和状態となってしまった。あまりにデリケートな差異を求めすぎるがゆえにポップ・ミュージックとしてのダイナミズムを失いつつあるポスト・ロック系、音響系などもそうだ。

 そうした消費の速度の異様な速さにも言及しなくてはならない。なにかにとりつかれたように買いあさったテクノ系のレコードのほとんどが、1年もたてばうち捨てられた古新聞のように色あせていく。いや、それどころか2~3回聴いただけで当初の新鮮さは失せ、見る影もなく輝きを失っていく。もちろんポップ・ミュージック、とくにダンス・ミュージックとはそもそもそういう宿命を負っているが、サルソウルなどのダンス・クラシックがいまだスタンダードとして聴き継がれ、ラリー・レヴァンなどのいにしえのDJミックスCDが新譜に互してロング・セラーとなることを思えば、この10年ばかり、音楽の賞味期限が極端に短くなっているのは明らかだ。

 それはアーティストの小粒化ももちろん関係している。昨年話題となったアルバムのひとつ、アクフェンの『My Way』は、ぼく自身も年間ベストに挙げたほど新鮮な刺激を与えてくれた作品だが、おそらく新しいモノ好きなテクノ・ファン以外は名前さえ知らないだろうし、ここからテクノなりクリック・ハウスなりというカテゴリーを超えるような新しい動きが出てくるとも考えにくい。より新しく強い刺激が現れれば、たちまち忘れ去られてしまうのは聴く側も先刻承知であり(90年代以降、先鋭化の一途を辿るヘヴィ・ロック/ラウド・ロックはそれ以上に際限のない「刺激のインフレ状態」にあり、まるで強迫観念のように速度と強度を高めていく、そのほとんどヤケクソなパワーは、ある意味でめっぽう面白い)、次のアクフェンのアルバムが今回と同じような注目を浴びる可能性は、かなり低い。

 ファッション雑誌のグラヴィア・ページをめくっていて一瞬ギクリとする感覚は、たとえそれが刹那的なものであるとわかりきっていても、いや、刹那であるからこそ美しい。歳月の風化に耐え、5年先10年先も聴き継がれる完成度の高いものだけが優れている、という価値観をぼくはまったく持ち合わせていない。だが――ホワイト・ストライプスやストロークスのような単なるリヴァイヴァル・バンドが救世主として絶賛されるような、30年一日の不毛なリサイクルを繰り返すだけの最近の英米の定型ロックは論外としても――刺激のインフレ状態と短命化が行きすぎて、飽和し小粒化して閉塞感が強まっているテクノ/エレクトロニカ/ポスト・ロック・シーンは、人によっては80年代後半のニュー・ウエイヴ末期のような退廃感が漂っているように見えるかもしれない。

 たとえばオヴァル=マーカス・ポップは「あらゆる音楽はハードウエアとソフトウエアの形態に規定される」と言い切り、エイフェックス・ツイン=リチャード・ジェイムスは「感情など入り込む余地のない、単なる音の連なりで音楽を作るのが理想」と述懐する。それが<音響>派のミュージシャンの多数意見とは思えないにしろ、なにがしかの本音を含んでいることも確かだろう。

 たとえばレディオヘッド=トム・ヨークのような人にとっては、自己の並はずれて強い自意識と、旧来のロックのトラディショナルな形式にあきあきしている現状認識の折衷として、エレクトロニカを大挙導入した『キッドA』『アムニージアック』のような作品が存在しているのしれない。だが、ヨークのような存在は例外であって、自意識やメッセージや思想性を音楽に内包させることを拒否する……という方向は、テクノ/音響以降においては主流をなしている。それは音楽に過剰な物語を託してキャラクタライズする従前のロック評論的物言いを無効化してしまう。言葉を持たない、あるいは拒絶するミュージシャンにとってそれは魅惑的なテーゼなのかもしれない。

 だがエイフェックスのような真に才能に富んだアーティストならまだしも、さしたる自我もテーマもなく、あたかも自室にひきこもってブロック遊びをするかのごとく同じようなハードウエアやソフトウエアに依存しきった多くの怠惰なエレクトロニカ系作品が、必然的な帰結として均質化していくのは目に見えている。それこにいくばくかの快感はあっても、感動がない。

 そしてそうしたぬるま湯的な均一状態に冷水を浴びせかけたのが、9.11であったはずだ。音楽が政治や社会や経済の状況から逃れられない限り、すべての音楽は政治的である。脳天気に踊っていても、自宅にひきこもってヘッドホンを耳に押し当てていても、世界は否応なしに暗転し、現実に向き合わざるをえなくなる。それを自覚し、「世界と対峙する」覚悟を持てるかかかどうは重要だ。たとえば3月25日に見たマッシヴ・アタックとDJシャドウの来日公演(NKホール)は、「音楽が現実に対してなにをなしうるか」という問いに対するひとつの回答だったと思う。そこには「音響の快楽」とともに、音楽が人の心を変え、既存のマニュアルやシステムを解体して新しい世界へと繋がっていく、という鮮烈な実感――「感動」があったのである。

 「なにを語るか」ではなく「どう語るか」が重視され、挙げ句はそれが一人歩きして「どう語るか」という「文体」だけが氾濫していたここ10年の音楽の動向は、やはりどこか歪んでいたように思える。9.11以後という「大きな物語」が、「なにを語るか」という主体性を復活させたのは、いささか皮肉めいてはいるが、ぼくはまだ希望を持っている。おそらく次の大きな動きはここ日本から生まれてくる気がしてならないのだが、それはまた別の機会に述べたい。

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