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11/02/2004

Joe Strummer (2)

 追悼文。ミュージックマガジン掲載。

 あまりに若すぎる、そして突然すぎる死だった。ジョー・ストラマーが12月22日、自宅で心臓麻痺で亡くなった。享年50歳。

 今年9月にはメスカレロズとしての2度目の来日を果たしたばかりだった。朝霧ジャムでその勇姿を見て健在ぶりを確認したばかりだっただけに、ショックは大きい。ぼくはジョーは長生きして、ジジイになってもそれなりの音楽をやっていくにちがいないと信じていた。クラッシュの後遺症から抜けられずずっとリハビリ状態が続いていたような15年の半隠居状態をようやく脱し、新たな自分の音楽を作り始めた、その姿勢には無理がなかった。ほんとうに自分の好きな音楽を好きなようにやる自然な姿があった。言ってみれば50歳にしてミュージシャンとしての理想的な境地に、ジョーは達していたのである。クラッシュ後の彼が余生じみたたたずまいだったことは否定できないが、それでもジョーが最近になってかってなく充実していたのは事実であり、その手応えを感じ取っていたのは、ほかならぬジョー自身だったはずだ。ジョーは、メスカレロズの3枚目のアルバムの制作に突入していていたという。99年の一作目から4年で3枚。それまでの15年間、まともなオリジナル・アルバムが1枚しかなかった(『アースクエイク・ウエザー』89年)ことを思えば、現役のミュージシャンとして完全に軌道に乗り、その活動はますます地に足のついたものになりつつあったのだ。だからこそその死は悔やまれるのである。03年にはクラッシュのロックンロールの殿堂入りも決定しており、授賞式のさいに一晩限りのクラッシュ再結成も噂されていたが、そんな過去の栄光などは必要ないほど、彼の近況は充実していたのだ。その彼の新しい音楽を、もう永遠に聴くことができない。それが何より悲しい。

 およそパンクの衝撃を真正面から受け止めた者なら、ジョーの歌声に鼓舞され刺激を受けたことは少なからずあるだろう。パンクであることにこだわり続けながら、音楽的にも前進しようとしていたジョーらの苦闘は、ロックそのものを前へ進めようとする闘いでもあったことに、誰もが気づいていたはずだ。クラッシュは結局ファースト・アルバム『白い暴動』(77年)を超えることができなかった、と個人的には思う。だが『サンディニスタ』(80年)という空前の大作は、彼らの豊かな音楽的土壌を示すとともに、数多くの矛盾を引きずりながらも疾走することをやめなかった彼らの戸惑い、葛藤、迷い、混乱、懊悩といった人間臭い感情が叩き込まれ、溢れ出た熱情とアイディアが、整理されないまま転がっている。その暴力的なまでの熱量のエネルギーと張りつめたテンションこそがクラッシュの価値であり、ジョーの本領だった。クラッシュ解散後のジョーの音楽からは、クラッシュ時代のようなテンションこそ薄れたが、その情熱と、音楽的指向性は着実に受け継がれている。

 『白い暴動』『サンディニスタ』、そして『アースクエイク・ウエザー』を経てメスカレロズの『Xーレイ・スタイル』(99年)『グローヴァル・ア・ゴー・ゴー』(01年)という2枚のアルバムに通底するのは、レゲエをとば口にした中南米音楽への強い関心と愛情である。クラッシュのファースト・シングル「白い暴動」は、当時ノッティング・ヒルで起こった黒人たちの暴動騒ぎに触発された曲だ。もっぱらジャマイカからの移民である黒人たちと、労働者階級が主のパンク・バンドたちは、保守的な階級社会であるイギリスである種の近親関係にあり、それはレゲエとパンクの密接な関係にも繋がっている。白人たちがはやりの黒人音楽をいただいて金儲けする、という古くから繰り返された図式とははっきり異なる構図がそこにあり、その急先鋒がクラッシュであり、ジョーだったのである。

 彼らのそうした姿勢は、『サンディニスタ』で一気に花開く。レゲエを取り入れたり、リー・ペリーにプロデュースを依頼するにとどまらず、ジャマイカから発してメキシコ、コロムビア、ニカラグア、ベネズエラと中南米音楽全般へと関心を広げ、さらにスコティッシュ・トラッドやR&B、ジャズ、ファンクと自らのルーツを遡行していく。そしてさらにタンゴ、ラテン、マリアッチ、テックス・メックスといったあたりまでその興味の範囲を広げ、テクノやハウス的な手法も取り入れていくメスカレロズ以降のジョーの音楽。99年のインタビューでジョーは、ここ10年ばかりクンビアに傾倒していることを明かし「おれはもともとスコットランドのもっとも北の部分で、ハイランドと呼ばれるところの出身なんだ。クンビアには、スコットランドの北部の民俗音楽と似たような雰囲気がある」と語っている。さらに本誌02年1月号のインタビューで、幼少期にはメキシコに住んでいたこともあり、その記憶が音楽にも反映しているのだ、という意味のことも発言している。つまり彼の中南米音楽への傾倒は、単に異文化へのエキゾティックな興味というだけでなく、彼のルーツを遡っていく行為と密接に連関していた。だからジョーの音楽には嘘がなく、自然だったのだ。

 たった一回しか会ったことのない人の人間性を語るほど軽率ではないつもりだが、数々の報道や発言、そしてなにより音楽そのものが伝えてくるジョーの人となりは、不器用で誠実、まっすぐな人物像だ。その場の勢いで発言したり行動して、それに縛られて墓穴を掘る、というような人間臭さ。それはクラッシュというバンドが抱えていた本質的矛盾でもあったが、そこに姑息な計算はない。ジョーがセックス・ピストルズのライヴを見てショックを受け、それまでのパブ・ロック風のバンドを解散してクラッシュを結成したのは有名な話だ。さらにピストルズの解散を受け、目標を失ってどうしていいのかわからなくなった、という意味の発言もしている。ジョニー・ロットンという天才がパンクそのものであるとするなら、ジョーはパンクにあこがれ、パンクになりたかったその他大勢の凡人にすぎなかったのかもしれない。そこにあるのは、まるで鏡を見るような自分自身の姿だ。そんなジョーらはピストルズ自爆後も、理想と現実の狭間でもがきながらボロボロになるまで走り続け、そして燃え尽きた。その後遺症から立ち直るのに15年も要しただ。その矢先の死。これが神の作ったドラマなら、あまりに残酷すぎる結末だ。

 ぼくはまだ彼に別れを告げる気にはならない。彼の人生も音楽もまだ発展途上であり、未完成だったからだ。そしてその物語は、未完成だからこそ、いつまでもリアルに響き続けるはずだ。その先に広がる風景を見ることはもはや叶わない。だが、ぼくは彼、ジョー・ストラマーという男のことを忘れることはない。絶対に。

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